大内宿のご案内
山本屋と戊辰戦争
江戸時代、関東と会津を結ぶ下野街道の交通の要衝だった大内宿は、宿場として、また荷駄運送の駅所として栄えていました。会津藩主(初代、2代、8代)の参勤交代の際もこの街道を通り、年に数万俵にのぼる廻米も運ばれていました。
戊辰戦争の際には、大内は会津軍と新政府軍の激戦の場となりました。会津軍後退のときには、あわや焼きはらいに遭うところでしたが、言い伝えによれば、当時の名主による死を覚悟の抵抗によってまぬがれたといわれています。
山本屋の店内には新政府軍が宿舎として使った際に新政府軍の兵士が斬りつけたと思われる刀傷が残っています。
重要伝統的建造物群
保存地区選定
時代は幕末から明治と代わり、新しい時代を迎えても大内宿は江戸時代のままでしたし、人馬の往来も大きな変化はありませんでした。 ところが明治17年、日光街道( いまの国道118と121号)が大川沿いに開通すると、人、物の流れが新しい道路に移り、大内宿は時代に取り残されていきました。新しく開通した日光街道は関東と会津の最短距離であったばかりでなく、道幅も広く補修も完全であったため、到底、大内宿の下野街道が対抗できるものではありませんでした。大内宿は山間の僻村として以後の時代を過ごします。しかし、大内宿は日光街道から遠く隔たったところに位置し、時代の波に取り残されたことによって、奇跡的に茅葺きの家並みを残すこととなりました。昭和56年4月、重要伝統的建造物群保存地区に選定されてからは、江戸時代の家並みや郷愁を望む観光客が訪れるようになっています。
大内宿と高倉神社
平清盛の全盛時代、高倉宮以仁王(後白河天皇の第二皇子)は諸国の源氏に激を飛ばし、源頼政と共に平家打倒の挙兵をおこないました。しかしこの計画が平家によってただちに発覚されると、京都・宇治川を挟んでの合戦で頼政は討死。高倉宮はからくも逃げ延びるも、奈良に向かって敗走の途中、流れ矢にあたって討ち取られたことになっています(享年30歳)。
しかし、屍体の確認が完全ではなかったらしく、伝承ではその場を逃れ、東海道から甲斐・信濃の山路を越え上野(栃木県)の沼田から桧枝岐に抜け、ここ大内にたどり着いたことになっています。
半夏まつりと桜木姫
桜木姫は高倉宮の愛妾といわれ、高倉宮敗走の後を慕ってようやく大内にたどり着きましたが、長い苦労の旅により倒れ、18歳の若さで、ここ大内で病死したと言われています。村人はその死をはかなんで、村はずれに墓を建てて供養しました。この墓周辺は今でも主君に仕える人が眠る原ということで、御側原(おそばはら)と言われています。
大内宿では毎年、半夏の日(7月2日)に高倉宮ゆかりの半夏まつりが行われます。村中の男衆が総出で参加し、古式ゆかしい行列が宿場内を練り歩き、村の西はずれにある高倉神社に帰っていきます。この様な祭礼が幾百年の間、山間の大内宿でおこなわれてきたという事実は、高倉宮を敬う強い信仰のあらわれでしょう。なお祭礼当日には、桜木姫を祀る桜木姫霊社に注連(しめ)が張られ、同格に祭られます。
冬の大内宿
雪に埋もれた、静かな大内宿で毎年2月の第二土曜・日曜日に「大内宿雪まつり」がおこなわれます。宿場内を思い思いの時代衣装御を身につけて歩く時代風俗仮装大会や日本一のだんごさし、そば喰い競争、雪まつりをテーマにした写真コンテストの実施など大内宿ならではのユニークな催し物がいっぱいです。また、雪景色の中で見る花火はとても幻想的で多くのカメラマンがシャッターを切っています。この日はたくさんの人でにぎわい、くるみそばを食べながら雪まつりを楽しむお客様でいっぱいです。